2016年8月更新、Biography最新版はこちらから!

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前身となるPARAISO出生秘話

2005年 某月  

3ピースロックバンド “Wild Monsters”

Bass,Vocal : KANOUMASAHIKO (現/Bass)   

Guitar : 黒田ヤスフミ(ex/PUNiK)   

Drum : 若松雄太 (現/Guitar)

 

約1年の活動後、黒田の脱退により解散

 

今後どうしようか?と、若松宅にてKANOUと2人 酒を呑み話していると、酒に酔い勢いで新バンド結成の流れに・・・

じゃあバンド名どうするか?ってなり、若松が10個ほど名前を挙げるがKANOUはどれも受け入れず

じゃあ、何がいいのやっ!!と口論になり、KANOUが言ったのが “PARAISO” だった

それは、今呑んでて目の前にある酒ビンに書いてある名前だった

もうなんか面倒くさくなった若松はそれを承諾し “PARAISO” 結成

それを期に

Guitar&Vocal : 若松雄太  

Bass : KANOUMASAHIKO

になる

そしてドラム探しの日々が始まる

 

4、5人とジャムってみるが、ピンと来る人が見つからない・・・そんな中迎えた6人目のドラマー・・・

それがタムラタカシ(現/Drum) だった

若松もKANOUもすぐに惚れ込んでしまい、一緒にやろうと誘うと2つ返事でOK !!!

そして、3ピースロックバンド PARAISO がやっと産声をあげた

 

 

 

暗黒のPARAISO時代

PARAISO結成から2ヶ月後には、新曲を11曲収録した自主制作音源 “PARAISO 1” 完成

さらに4ヶ月後には、さらに新曲を6曲収録した自主制作音源 ”PARAISO 2“ 完成

そしてまたさらに6ヶ月後には、新曲8曲を収録した自主制作音源 “PARAISO 3” 完成

この時期に創った曲達が現在でも多く残っている

3人ともあまり考え過ぎず、当時の考え方が

“ ロックンロールだぜ? 酒呑んで暴れりゃあいいんだよっ!!”

的なところもあった為、作品の良し悪しは置いといて・・・生産性には長けていた 

この当時のKANOUはライブの時によく

「ロックンローーーーーールっ!!!!!!」

とか、

「ファイヤーーーーーーーーーっ!!!!!!」

とか、

よく叫び散らしていた

そして、2007年くらいからだろうか・・・ライブやれば会場は盛り上がるが客はつかず、

結局最後は行儀のいいバンドがおいしいとこを持っていく・・・という現実に嫌気がさしだしていた

その頃からDrumのタムラも他バンドと掛け持ちでPARAISOで叩くようになり

うまくいかず機嫌の悪い若松にクビにされたり、やっぱ他のを探しても見つからず戻ってきてくれとせがまれたり・・・

それを3セット行うくらい、沈没寸前の状態が続いた

ライブでは、G&Vo 若松がアンプを蹴っ飛ばしたり、モニターを客席に投げ飛ばそうとするが重くて飛ばず、コロン・・・って転がっただけだったり

Bass KANOUは、ライブ中にお客と喧嘩したり

Drum タムラは客のいないホールにステージからダイブして肩の骨折って失神したり・・・

迷走する日々が続いた

それでも何も無いよりは楽しかった

「嘘ついてまでして音楽やりたくねーよっ!!」

って思ってた

客の前だけいい格好するバンドマン達は汚れている・・・心ってあんのか・・・ただのネズミコウじゃねーか・・・

と、当時若松は遠くを睨みつけよく言ってたっけ・・・

 

そして、2009年 冬

音楽への思いも、意欲も、夢も、自信も薄くなっていたある日

タムラの掛け持ちしていたバンドが終わるから、そのバンドのVocal をこっちで歌わせてくれないか?

と、タムラが言い出した

以前、何回かそのバンドを見たことがありそのVocal の事を高く評価していたKANOUは賛成で、

毛嫌いしていた若松はNOだった・・・

 

事実上の決定権は若松が握っていたが、意見が2対1だった為とりあえずスタジオに入ってみることにした

そしてスタジオに入りあらかじめ覚えてきてくれと告げていた曲をやってみると

全く歌えない始末・・・

キーが合わないとか、言い回しが難しいとか、あらかじめ予測出来るだろう事を、スタジオ後の居酒屋でそのVocalが話している時に

若松は、こいつバカか天才だな・・・っと思っていたらしい

そしてこの頃若松は、やりたい音楽が3ピースでやる事の難解さを感じていたのもあり

そのVocal が天才でありますように・・・と星空に祈りを捧げ、そのVocal を加入させる事を決意したらしい

 

そのVocal が、ベル (現/Vocal) だった

 

 

 

PALAISOに改名、そして・・・

2010年1月より、バンド名をPALAISOに変え

Vocal : ベル   

Guitar : 若松雄太  

Bass : KANOUMASAHIKO   

Drum : タムラタカシ

の布陣で現在に至る

 

一時は失われていた、音楽に対する思いも、意欲も、夢も、意欲も見事に復活し

浮かんでは消えるやりたい音楽の幻を影を追いかけて活動している今に至る

その甲斐あってか、2012年に行われたCROWN MUSIC協賛のコンテストにて

100組ほどのシンガー、バンドがエントリーした戦いの中で見事勝ち進み、なんと・・・優勝して

最優秀賞のトロフィーを天高く突き立てる・・・に至った

この勢いで2013年・・・何かが弾ける事だろう

 



・・・2013年

2012年の年末にコンテストで優勝し、何かが起こるだろう・・・と期待の念 満開で迎えた2013年。

結果的に、想像していたようにはならなかった。やっぱり、それほど甘いものではなかった。

酒を呑んでは、つばを吐き、天を仰ぐ・・・そんな日も少なくなかった。


そんなある日、以前から少し交流のあったORGASM(現・ORGA-Entertainment)

代表の有留氏から、サウンドチェックを受けてみないか?とゆう話が転がってきた。

このORGASMとゆうのは、当時ライブイベントを手広く行っていたところで、そのライブイベントに出演すると4台のカメラを駆使して作ってもらえる“ライブ動画”が当時の俺達にはとてもいいもので3ヶ月に1度ほど、我々PALAISOも出演させてもらっていた。


当時の我々は、音なんかどうでもいい。音が良いから音楽も良い・・なんて、やり手のエゴだ!

なんて思想のド真ん中にいたし、現代でも60年代70年代の音楽を愛聴していた為

有留氏からの話も乗り気ではなかった。

しかし、それでも彼はしつこくしつこく誘うもんで、しぶしぶ受けることになった。

サウンドチェックを受けるには、大金ではないが、お金を払わなければならなかった。

どうせ、金が目的なのだろう・・。少しチューニングを変えただけで、バンドにとって大きな変化を

得られるならば、ハナから誰も苦労しないだろ・・・。

なんて思いの元、それは始まった。


サウンドチェックとは、簡単に言うと ギターとベースのチューニングをほんの少し変えるだけで

ボーカルの声、ドラムの太鼓の抜けが良くなる・・・つまりは、全体的に音が聞こえやすくなる

というものだった。


サウンドチェックの講師である、大本氏(ORGA-Entertainmentのレコーディングエンジニアでありハンドメイドエフェクターを作り世界でも高評価を得る技術者でもあり、ギタリストとしても超一流)

立会いの下、それは進んでいき、弦の張り方、アンプのセッティング、シールドについての知識、楽器、マイクについての知識・・など、今まで気にも留めなかった細かい部分までも教えてもらった。


そして、新しいチューニングを授けてもらい全体で音を鳴らしてみた。

すると・・・

明らかに違った。

2時間前に同じ曲を演奏した時とは明らかに違っていた。

それは、音質みたいなものに鈍感な我々でもわかるくらいの差があり、メンバー一同、驚きが興奮に変わり 果てには笑っちゃうくらいだった。


このサウンドチェック後から、いろいろなものの見方や考え方が大きく変わったように思う。

そして、その期を頂いた有留氏、大本氏の事を崇め、ORGA-Entertainmentに近づこうとする

思いが無意識に生まれていった。

その思いを知ってか知らずか、彼らもまた我々に近づいてくれるようになったと感じる頃には月2本はORGASMのライブイベントに毎月出演し、ORGASMにレギュラー出演している演者、スタッフさんとも打ち解け、ORGASMというデッカイ輪の中にいた。


ずーーーーーーーーーーーっと誰も信じず、誰の言葉にも耳を貸さず、ひたすら下へ下へと土を掘り進めていたモグラのようだった我々PALAISOが、いつの間にか、気がつきゃ、、上へ上へと掘っていて、地上へ出てみて 太陽の暖かさ 月の美しさに気付く・・・みたいな心境だった。


この頃から音楽をやるにあたって、自分等が楽しめればそれでいい・・とゆう思想から、どうすればもっと楽しませられるか?に変わっていった。

・・それに気付くまで だいぶ時間を費やしてはいるが、素直なもんでしょうがない・・と、しておこう。



2013年10月 いつものように労働中の若松の電話が鳴る。

携帯のディスプレイを見ると、それは有留氏からの電話だった。

電話にでると彼はいきなり

「あー、若松君。・・・CD出そう!!」

と言ってきた。

それは、ORGA-EntertainmentからPALAISOのCDを出そう!との事で、

そろそろ全国リリースできる、自主制作ではなく しっかりしたCDを出したいと思っていた我々には願ってもない言葉だった。


若松は2つ返事で是非!との事を伝え、電話を切り、労働中にも関わらず天へ突き刺さらんかとばかりに拳を突き立て歓喜した。

その後すぐに、その旨をメンバーにも伝え 若松とは対となる意外と冷静なメンバーのリアクションに戸惑うが、初の全国リリースとなる作品創りにコマを進めるのであった。


この晩の酒は、それはもう美味であったとさ。。




激動の2014年

PALAISO初の全国リリースCDを出すことが決まり、

歓喜の中迎えた2014年。


1月、今作のCDは3曲収録のmaxi single。

曲は、既にライブでは披露していた「アウトライン」「リアルアル」

もう1曲は完全に未発表なバラードを作って入れて

その3曲のベースとドラムのレコーディングを1月末日にやろう・・・と、

プロデューサーである有留氏との話し合いで決まっていたが、

PALAISO初となるバラード曲制作に てこずっていた。


結局、完成したのは、ベース&ドラム録音の10日前だった。

その曲が「歩く月」である。


普通ならば、「絶望的時間の無さ」に絶望するところだが

ベースのかのうもドラムのジャンキーも、PARAISO結成当時からの

「若松の無茶ブリ的 ハイスピード工程」に慣れていたところもあり、

なんなく無事録音を終えたのであった。


そしてギターレコーディング、ボーカルレコーディングと順調に進み

音源は完成に向かっていった。


レコーディングも無事終え、

昨年末からのバタバタした感じが落ち着き、紅茶でも飲もかい・・・

なんて気分だったある日、プロデューサー有留氏から

「Music Videoを作ろう!」

と、言われた。


しかも、

「3曲とも全部Music Videoを作ろう!」

と。。


Music Videoとは、ちょっと前まではPVと言われていたもので

CDリリースに際してプロモーションとかに使われる動画である。

まぁ、PVだね。。


有留氏からMV制作の話を聞いた時に、メンバーの脳裏に

忘れかけていた過去の悪夢がよぎる・・・

それが、、「フラメンコリーの悲劇」 である。


「フラメンコリーの悲劇」とは、

2012年頃、とある音楽会社(よくわからないけど音楽関係で

飯食ってる会社と認識)に、

「君達はいいよ!

今 音楽業界は厳しい時代だけど、君達ならいけるかも!」

と 構われていた頃に、PVを作らないか?と言われ

「豚もおだてりゃ木に登る」的 性格な我々の返事はYes!! しかなかった。

そして、約9万円を支払いPVを作ることになった。

売れないバンドマンである我々からすれば、ナケナシの金であったが

これで何かが変わるなら・・・と、彼らに応じた。


「PVは、TV関係でも流してもらえるようにこちらからも

関係者に推すけど、名も無いバンドで長い曲だと厳しいから

短い曲のPVがいい」

って事だったので、当時ライブとかでもよくやってた

「フラメンコリーへ」のPVを作ることになった。


しかし、せっかくTVで流れるだろうPVの音質が自主制作音源(若松が

所有する機器で作り、編集したもの。

やはりアマチュア感が匂う。個人的には好きだが・・・)

だと、伝わるものも伝わらないかな・・・と思った若松は、当時から

良くしていただいていた大本氏(ORGA-Entertainmentの

レコーディングエンジニアでありハンドメイドエフェクターを作り

世界でも高評価を得る技術者でもあり、ギタリストとしても超一流)

に泣き付き、時間もお金も無かった為

完全に本格的に録り直しは出来なかったながらも、これならTVで

流れても大丈夫!なクオリティーの音源を作ってもらった。(若松基準)


そして、準備万端で迎えたPV撮影日。


PVの内容については、完全にこちらに丸投げな感じだった為、

若松が構成を考え、衣装、使いたい小道具も持参して行った。

「フラメンコリーへ」の歌詞で

「UFOの中には たぶん世界中から集められたキャンディが

詰まっているはず・・・」

ってとこがあり、そこで使おうとUFOのプラモデルも買い

世界中の国旗をキャンディの包装紙として使った

完全手作りキャンディを持参したり・・と、やる気に満ち溢れていた。


そして、制作プロデューサーと初対面。

第一印象は「床屋帰りのステーキ大好きなおじさん」(若松談)

なんか想像してた感じと違うな・・・な、中

あれこれこちらの要望を説明する若松。


しかし、全然話を聞かないプロデューサー。

こっちが言い終わる前に

「わかってるよ。こうしたいんでしょ?」

みたいな事を言ってくる、俺(若松)の1番嫌いなタイプ。


まぁでも、それなりの経験もあるんだろうし、嫌な予感を感じ

ながらも、話の腰を折られ続けても 頭を下げ

「よろしくお願いします!」な態度に徹した。


そして撮影が始まり、、、嫌な予感は的中する事になる。


作ってきた構成も何もかも無視され、

「早く終わらせてステーキ食いに行こう!」(若松の想像)

と言わんばかりに、めちゃくちゃ かつ むちゃくちゃに進む撮影。

「フラメンコリーへ」のPVを撮るって事は、1ヶ月以上前には

決まっていて、音源も渡していたはずなのに、

今日初めて聞いた感丸出しな言動、発言。


とにかく、酷かった。

なんかよくわからないカットを大量に撮られ撮影は終わった。

そして完成したのがコレ↓↓↓↓

www.youtube.com/watch?v=70OBu157Ttk


なぜかバックは牧場だし、よくわからないアップ多いし、

この曲は「牛をさらいに来たUFOが墜落した」って曲??

みたいな具合になってしまった。。


若松がふてくされて演奏してるように見えるのは、

そうゆう設定とかではなく、リアルです。


後日、見せたくはなかったが 大金払って作ったし・・・

って訳で、いろんな人に見てもらったが 意外と評判は良かった。


あの間の抜けた感じが逆に良いと・・・。


「あれは、ああゆうものを狙って作ったんだよ!」

と、みんなにドヤ顔で言い散らしてまわった・・・って事は、

言うまでもない。。


それを経て、

「自分は すごく小さな世界にいて、その小さな世界の中で

さらに小さな自分の価値観で迷ったり、苦しんだりしている」

みたいな風に感じるようになった。

結果オーライでいいのでは?・・・と。


良い勉強にはなったが、あの感じは悪夢でしかない。

今となっては笑い話だが・・・


・・・と、これが「フラメンコリーの悲劇」でした。

あんまり、悲劇っぽくなかった事は置いといて進めよう。。



MV3作制作って話が出てきて、それに向けて動き出した春頃。

プロデューサーである有留氏から

「とりあえず1曲でいいから、MVの絵コンテ作って見せてくれ」

と、言われ 「リアルアル」のMVの絵コンテを作り見てもらった。

絵コンテを作るのは、初めてだったが自分では割と良く

仕上げられたと、自信に溢れつつ持っていった。(若松が)


そして見せると有留氏は

「うーん・・・」

と、あまり響かない鐘のような曇った音を漏らした。

そして、

「ちょっと、伝わりづらいかな・・・」

と言い、

「俺が作ってみようか?」

と。


けっこう自信のあった絵コンテをボツにされた若松は

「じゃあ、お願いします。」

(そんなに言うなら、アナタの力を見せてみろ!)

と言い、その場を後にした。


そして、有留氏からの連絡を待つことしばし、、、

内心、

「1曲分のMVプラン作るのに、なんぼほど時間かかんのや・・」

と思っていたある日。

「出来たから見てみてください」

との連絡が入り、見てみると、、それは3曲分のMVの脚本だった。


しかも、我々4人の設定から衣装から大筋のストーリーから細かい

部分までビッシリと、3曲分。。

それはもう、映画とかドラマの台本のようだった。

しかも、それ読んだだけで思わず笑ってしまうくらいに面白かった。

これにはもう脱帽だった。


若松は、それを期に

「一瞬でも疑って申し訳なかった」

との意で、胸の辺りまであった髪の毛をバッサリと切り、

スキンヘッドにしたのであった。(アウトラインMVで、住職役ってのも

あったが・・・)


かくして、おもしろいMVプランも出来、プロデューサーへの信頼

もMAXまで上がり、いよいよ撮影にコマを進めるのであった。



いろんな準備とか、スケジュール調整とか、なんやらで撮影に入ったのは

夏だった。


真夏の炎天下の中での撮影は、想像以上に過酷なものだった。

今回のMVは外での撮影が多かった為、

撮影スタッフ、我々 共に汗びっしょりになり奮闘した。


街中で、海で、交通量の多い国道で、、など・・いろんなところで撮った。

特にボーカルのベルは、断然登場シーンも多いし、動くシーンも多いし

大変だったと思われる。


「リアルアル」の最後らへんのシーンを見た人にはわかるかもしれないが

明らかに顔色が悪い。。

彼はあの時、熱中症になってたと思う。

頭痛も酷いようだったし、疲弊しきっていた。

しかし彼は、スケジュール調整が厳しいのもわかっていたし、

早く終わらせて楽になりたいってゆうのもあったから?か、

心配する我々に

「大丈夫です。続けましょう。」

と、根性で乗り切ってみせた。


まぁ、その日の撮影後メンバーと飯食べに行った先で、

ビール飲んでいつものベルに戻っていたが。。

とにかく、撮影後のビールは最高だった。


そして、撮影最終日を迎える頃には秋になっていた。

このMV撮影を経て、またいろんな感情が溢れる。

1番大きな感情は「感謝」だ。

プロデューサーである有留氏はもちろんの事、暑い中頑張ってくれた

スタッフ、「リアルアル」で友情出演してくれたユイ氏(ORGASMイベント

ライブでMCを盛り上げてくれていた元ORGASMスタッフ)、

みんなが我々パライソの為にしてくれている・・

という事実が何よりも嬉しかったし、感謝の気持ちでいっぱいだった。


そして、ベルもかのうもジャンキーもこの撮影を経て1回り太くなった

ように感じる。

おそらくメンバー全員が俺と同じ心境だったのだろう。。


そんなこんなで無事撮影も終え、いよいよ全国リリースまであと1歩の

ところまでコマを進めるのであった。